箱根小涌谷温泉
今日は、小田急ロマンスカーに乗って箱根小涌谷温泉にやって来た。クルマで来るはずが、月末なのでやめて電車にしました。
今夜の宿は、箱根小涌谷「水の音」である。箱根「蓬莱園」の紅葉も今が見ごろでした。「千絛(ちすじ)の滝」の周りも紅葉がきれいでした。
今夜の宿は、箱根小涌谷「水の音」である。箱根「蓬莱園」の紅葉も今が見ごろでした。「千絛(ちすじ)の滝」の周りも紅葉がきれいでした。
江戸歴史散歩と「上野恩賜公園の界隈」
江戸歴史散歩と「上野恩賜公園の界隈」2007.11.24 西郷像前集合〜鶯谷駅前解散
11/24今回の江戸歴史散歩は、
上野公園の界わいである
「上野の公園」は、我がご幼少の頃の遊び場とお散歩のコースですが、
まだ知らない所がいっぱいあったのです。
西郷さんの銅像(1898.12.(明治31)建立像は高村光雲作、下谷小学校卒業生)
→彰義隊の墓(上野戦争で、彰義隊士の遺体は上野の山内に放置、
円通寺の住職によって荼毘)
→天海僧正毛髪塔(南光坊天海、江戸初期の天台宗
高僧「慈眼大師」の毛髪塔)
→東叡山寛永寺清水観音堂見学(平安京と比叡山の関係、京都の寺院、不忍池を琵琶湖と竹生島)
→秋色桜「井戸ばたの桜あふなし酒の酔」元禄時代、日本橋小網町の菓子問屋の娘、お秋が十三歳の時の句、輪王寺宮公弁法親王にとまった話)
秋色庵大坂家HP
→黒門跡(彰義隊の籠もる黒門、大村益次郎との上野戦争の激戦跡)
→時の鐘(大名の屋敷が多く、鐘撞料も多分に取れた)
→上野東照宮(藤堂高虎、天海大僧正(慈眼大師)
が家康の遺言で高虎の屋敷領地の上野の山に、1617年造宮)
→寛永寺根本中堂跡(上野公園大噴水のあたり)
→ボードワン博士像(病院建設予定地から公園にしたオランダ人の像、
去年本人の新しい像に変わった)
→旧因州池田屋敷表門(鳥取藩、丸の内大名小路にあった)
→両大師開山堂(慈眼大師・南光坊天海僧正)(比叡山延暦寺高僧、慈恵大師・良源上人)
→旧本坊黒門(寺僧の住坊、春は枝垂桜)
→殉死者の墓(寛永寺)
→寒松院(藤堂家の菩提寺、寒松院の庭園は国立博物館庭園)
→巌有院勅額門(4代将軍家綱霊廟)
→常憲院霊廟勅額門(5代将軍綱吉霊廟)
→現寛永寺根本中堂(1879年、川越喜多院の本地堂を移築)
→芋坂(芋坂跨線橋、山芋が採れた)
→羽二重団子(音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」開業)
→寛永寺御隠殿跡(東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸)
→中村不折(書道博物館)前の[子規庵]内部見学
→八二稲荷(前田家別邸の邸内社)
→根岸三平堂前(落語家先代林家三平師匠の住まい)
→庚申塚(根岸小学校、幼稚園前)
→鶯谷駅前解散(名物マークホテルがたくさんある)
寛永寺輪王寺殿前から、両大師橋を渡って
行くと下車坂町、 寛永寺車坂門があった。
寛永寺の東側に並ぶ子院に沿う
奥州裏街道から伽藍の並ぶ根本中堂へ入る門を車坂門といい、 その周辺が車坂町でした。
「車寅次郎」の名は、 生誕の地である「車坂」。
我が父もここで生まれたが、標準語を使っていたので、
江戸前の言葉は私もわからない〜
(下町は、北関東の言葉、東北弁が大手を振って歩けたのです!!)
11/24今回の江戸歴史散歩は、
上野公園の界わいである
「上野の公園」は、我がご幼少の頃の遊び場とお散歩のコースですが、
まだ知らない所がいっぱいあったのです。
西郷さんの銅像(1898.12.(明治31)建立像は高村光雲作、下谷小学校卒業生)
→彰義隊の墓(上野戦争で、彰義隊士の遺体は上野の山内に放置、
円通寺の住職によって荼毘)
→天海僧正毛髪塔(南光坊天海、江戸初期の天台宗
高僧「慈眼大師」の毛髪塔)
→東叡山寛永寺清水観音堂見学(平安京と比叡山の関係、京都の寺院、不忍池を琵琶湖と竹生島)
→秋色桜「井戸ばたの桜あふなし酒の酔」元禄時代、日本橋小網町の菓子問屋の娘、お秋が十三歳の時の句、輪王寺宮公弁法親王にとまった話)
秋色庵大坂家HP
→黒門跡(彰義隊の籠もる黒門、大村益次郎との上野戦争の激戦跡)
→時の鐘(大名の屋敷が多く、鐘撞料も多分に取れた)
→上野東照宮(藤堂高虎、天海大僧正(慈眼大師)
が家康の遺言で高虎の屋敷領地の上野の山に、1617年造宮)
→寛永寺根本中堂跡(上野公園大噴水のあたり)
→ボードワン博士像(病院建設予定地から公園にしたオランダ人の像、
去年本人の新しい像に変わった)
→旧因州池田屋敷表門(鳥取藩、丸の内大名小路にあった)
→両大師開山堂(慈眼大師・南光坊天海僧正)(比叡山延暦寺高僧、慈恵大師・良源上人)
→旧本坊黒門(寺僧の住坊、春は枝垂桜)
→殉死者の墓(寛永寺)
→寒松院(藤堂家の菩提寺、寒松院の庭園は国立博物館庭園)
→巌有院勅額門(4代将軍家綱霊廟)
→常憲院霊廟勅額門(5代将軍綱吉霊廟)
→現寛永寺根本中堂(1879年、川越喜多院の本地堂を移築)
→芋坂(芋坂跨線橋、山芋が採れた)
→羽二重団子(音無川のほとり芋坂に「藤の木茶屋」開業)
→寛永寺御隠殿跡(東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸)
→中村不折(書道博物館)前の[子規庵]内部見学
→八二稲荷(前田家別邸の邸内社)
→根岸三平堂前(落語家先代林家三平師匠の住まい)
→庚申塚(根岸小学校、幼稚園前)
→鶯谷駅前解散(名物マークホテルがたくさんある)
寛永寺輪王寺殿前から、両大師橋を渡って
行くと下車坂町、 寛永寺車坂門があった。
寛永寺の東側に並ぶ子院に沿う
奥州裏街道から伽藍の並ぶ根本中堂へ入る門を車坂門といい、 その周辺が車坂町でした。
「車寅次郎」の名は、 生誕の地である「車坂」。
我が父もここで生まれたが、標準語を使っていたので、
江戸前の言葉は私もわからない〜
(下町は、北関東の言葉、東北弁が大手を振って歩けたのです!!)
松岡美術館と東京都庭園美術館
松岡美術館
松岡コレクション「近代日本画展」 を鑑賞してきました。
創立者松岡清次郎翁の蒐集品を、
白金台の私邸跡地に2000年に新しい
松岡美術館が建設されましたそうです。


東京メトロ南北線「白金台駅(シロカネダイ)」の周辺を散策。
1400年以前〜江戸時代初期には「白金原」と呼ばれた原野だった。
白金長者(応永年間に白金地区を開墾した
富裕の豪族、柳下上総介が大量の銀(しろかね)を
所有していたことから、銀しろかね長者と呼ばれた。
柳下上総介)の面影をしのびました?
旧朝香宮邸東京都庭園美術館


「世界を魅了したティファニー1837−2007」展を見た。
東京都庭園美術館の庭園を散策、
日本庭園の紅葉が少し色づいてきました。
西洋庭園のバラの花は、終わりに近づいた。
旧朝香宮邸、建物は第二次世界大戦後、外務大臣公邸などに
使用された(1947〜1950年)
国賓・公賓などの迎賓館として使用されたが、
1950年に西武鉄道に売却。
1981年、東京都が購入し、1983年(昭和58年)、
都立東京都庭園美術館として公開されました。
旧朝香宮邸1階は大広間、大客室、大食堂などの
公的スペース。
2階に寝室など宮家の私室がある。
東京都庭園美術館
通常の展示では、建物全体の半分ほどが展示室として公開。
展示は、館蔵品による常設展示はないですが、
特定のテーマに沿った企画展示が年数回行われています。
次回「アール・デコの館」
コンサートのある日の
12月のチケットは、もう売り切れであります。
白金、室町時代、白金長者の屋敷跡の自然教育園、
東京都庭園美術館は、高松藩主
松平讃岐守下屋敷の屋敷跡なのです。
東海道で栄えた高輪に比べ、森や田畑の多い静かで
閑静な土地でした。
去年に続いて3連休の2008/1/12〜14の3日間は
誰でも入れて、写真撮影OKなので、この日にまた行きましょう!
松岡コレクション「近代日本画展」 を鑑賞してきました。
創立者松岡清次郎翁の蒐集品を、
白金台の私邸跡地に2000年に新しい
松岡美術館が建設されましたそうです。


東京メトロ南北線「白金台駅(シロカネダイ)」の周辺を散策。
1400年以前〜江戸時代初期には「白金原」と呼ばれた原野だった。
白金長者(応永年間に白金地区を開墾した
富裕の豪族、柳下上総介が大量の銀(しろかね)を
所有していたことから、銀しろかね長者と呼ばれた。
柳下上総介)の面影をしのびました?
旧朝香宮邸東京都庭園美術館


「世界を魅了したティファニー1837−2007」展を見た。
東京都庭園美術館の庭園を散策、
日本庭園の紅葉が少し色づいてきました。
西洋庭園のバラの花は、終わりに近づいた。
旧朝香宮邸、建物は第二次世界大戦後、外務大臣公邸などに
使用された(1947〜1950年)
国賓・公賓などの迎賓館として使用されたが、
1950年に西武鉄道に売却。
1981年、東京都が購入し、1983年(昭和58年)、
都立東京都庭園美術館として公開されました。
旧朝香宮邸1階は大広間、大客室、大食堂などの
公的スペース。
2階に寝室など宮家の私室がある。
東京都庭園美術館
通常の展示では、建物全体の半分ほどが展示室として公開。
展示は、館蔵品による常設展示はないですが、
特定のテーマに沿った企画展示が年数回行われています。
次回「アール・デコの館」
コンサートのある日の
12月のチケットは、もう売り切れであります。
白金、室町時代、白金長者の屋敷跡の自然教育園、
東京都庭園美術館は、高松藩主
松平讃岐守下屋敷の屋敷跡なのです。
東海道で栄えた高輪に比べ、森や田畑の多い静かで
閑静な土地でした。
去年に続いて3連休の2008/1/12〜14の3日間は
誰でも入れて、写真撮影OKなので、この日にまた行きましょう!









